「アイドルを推す」について私見

私にとって アイドルを推す ということ について明確にしたい。

そう思って書き出している。だからもし、この文章を読む稀有な人がいるならば個人的な表明に近い文章だと思ってほしい。

 

元々女性アイドルグループが好きでジャニオタ歴は浅い。

ジャニオタ的な視点というよりか、アイドルオタクとしての視点になるが、

「アイドルをどう捉えるか」の話をしたい。

 

以前WACKが好きだった。もともとBiSはがむしゃらに剥き出しなアイドルグループだった。(第一期BiS)そんな彼女たちが好きだったし、全力で生きる彼女たちに自分を重ねた。WACKの場合、「全力で生きる」彼女たちがコンテンツだったように感じる。だからこそ、時々痛々しく思うほどえぐられた。脱退失踪そんなこともよくあった。彼女たちの人生が消費されるこの状況を私は望んでいるのかということを強く感じた。(第二期BiS)プールイが卒業した時、それは確信になった。アイドルは虚像である。

すべてのことには矛盾があるじゃないですか。本音と建前ってあるじゃないですか。でもどっちも本音じゃないですか。汚いほうと綺麗なほう、みたいなものがいつもある訳で。人間は。それのどっちを出すか、みたいなところがあるじゃないですか。でも出したほうが本音になるんですよ。 

BiS『WHOLE LOTTA LOVE / DiPROMiSE』プー・ルイ卒業&新体制初インタビュー | Special | Billboard JAPAN

 アイドルは虚像であると強く思った。これは私の根本的な理念になる。

アイドル本人もアイドルの姿に自分を映す。鏡は真実だろうか。彼らの場合、アイドルの姿というのはメディアに載ったり、他者に見られる姿のことかもしれない。

すごく概念的な話になるが、鏡の姿が反転するのと同じように、他者が貼ったレッテルがそのまま映っているのと同じ気がする。

本人にとっても虚像、ファンにとっても虚像。

だからこそ、真実である必要はないのだ。アイドル=媒体という認識である。

 

これは思い出話だが、私はでんぱ組.inc夢眠ねむが好きだった。彼女の卒業コンサートに行ったとき、彼女はアンコールでアイドル夢眠ねむではなく、でんぱ組.incのファンとしてステージの端にいた。これについて愛を叫びたい。好きだ。

でんぱ組.incのWWDという曲(シリーズなのでWWDBESTもいい)を聴いてもらえればわかるが、彼女たちも自分たちの人生をアイドルの姿に投影するタイプのアイドルだった。彼女自身、自分の活動を作品と捉えていて、それを完成させた。という認識だ。

“アイドル”夢眠ねむの最後とこれからのグループの姿 - Real Sound|リアルサウンド

彼女まで割り切って活動している人は少ないかもしれない、でもほとんどの場合多かれ少なかれ、同じだと私は思っている。

 

ここまで女性アイドルについて語ってきたが、女性アイドルは「卒業」なんて言葉をよく聞く。男性アイドルの場合あまり聞かない言葉かもしれない。

これは日本社会の家長制度を感じるからあまり好きではないのだが、ハロープロジェクトでは25歳定年説なんて囁かれている。(実際それを揶揄した曲もある。)特にハロプロの場合、小中学生の頃から活動をして大人になるその過程の少女性の揺らぎであったり、成長?みたいなものも特性だったりするが、その期間のかけがえなさというか、代替不可能な尊く儚い時間をアイドルとして提供するわけだ。10代の前半から芸能活動をする彼女たちがすべて、自分自身の虚像を見立てられるはずがなく、「普通の女の子に戻りたい」と言って卒業することも少なくない。少女(思春期のモラトリアム期間)としての期間を消費してしまうのだ。

これが堪らなく切ない。彼女たちのパフォーマンスや努力する姿、プロフェッショナル的な凄味を応援している私は自分を重ねたりしながら、敬愛する訳だが、私は彼女たちの時間を奪ってしまったのか、とか、消費物としてコンテンツ化してしまったこととか、申し訳なく思う。だから卒業は潔く送り出したい。

罪深いことをしてると思う...これがアイドルを俗的な文化に置いてしまう部分だと思う。

モラトリアムをできなかった彼女たちは卒業後に色々壁に直面する。それも含めて応援したい。でもそれだって彼女たちがアイドルをしていなかったら選べなかった道だったりするから。(アイドルの頃から比べれば小さいステージになってしまったりしても、彼女たちが選んだ道を素直に応援したい…切ないけど)

 

話が飛躍してしまったが、ジャニーズの話に戻る。

彼らは定年がない。いつまでも立ててしまう、だから10代の少年の頃から芸能活動している彼らが一般人のような思春期のモラトリアムをせずに10年、20年と活動する中で社会を知り、揉まれ、大人になり、成熟する。長期のスパンでできていることは女性アイドルと違うところだと感じる。(これは個人的な私見だ)

だから、その中で虚像を見立てられる人も少なくない?のではないだろうか、嵐に関してはそうだと思う。

やっと嵐の話になった。長かった。

 

アイドルを推すことについて振り返る。

「私はアイドルを応援し、コンテンツを所有する。

アイドルは人間だが、人間を所有するわけではない。

私は人間の時間というコンテンツを消費する。」

これが大前提だ。虚像だから。

アイドルを宗教のように感じる人も少なくないと思う。だけれど、私はそうは思わない。信仰のように絶対的な基準として思うことはない。(自分自身が信仰に対する意識が浅いというのもあるかもしれないが)

私のことが少し知ってる人はわかると思うが、私がドラマや映画の役にハマりやすいのはこういう経緯があるからだ。虚像のコンテンツは消費可能な娯楽であるから。

ではドキュメンタリーをどう思うか、とても課題だ。

すごく難しい、見てはいけないものを見ている気持ちになる。でもこれができるのは嵐が成熟した大人だからだと思う。ドキュメンタリーが必ずしも赤裸々である必要はない。きっとこれは嵐も私も共通認識だと思う。しかし、1231に向けて自らを応援してくれている/たファンに「誠意をもって活動する」1セクションなんだと解釈する。だから受け取る。(都合がいい)

「もっと近くに」本当に近いな、これが私の実感だ。虚像であるには距離がほしい、snsは実世界に直にフラットにアクセスするメディアだ。可能であれば、一段下から見たい。解像度を落としたい....嘘が嘘であるためには距離が必要だと思う。

 

虚像、虚像と繰り返したが、彼らの活動が嘘だと言っているわけではない。彼らの努力を否定したいわけではないし、それを疑ってかかれという話でもない。本当の姿じゃなくてもいいんだよ、という前提だ。ファンが思っている姿が本当だと思ってほしくない。(彼ら自身がこう見られたい、こうありたい、というのはあると思うが)私の推すという行為はこういう意味だ。あくまでも、コンテンツとして消費するには虚像であることを忘れない、ということだ。自分自身に言い聞かせるだけだが。

 

最近の社会的支援の姿を政治的だと捉える人がいるかもしれない。

まずは、彼らの活動の是非を問うのではなく政治的とは何かについて考えてほしい。

ニュートラルでいることが色がなくて親しみやすいのは事実だが、彼らの立場、認識、それぞれの結果だと私は解釈する。

彼ら自体を判断することはない、だって虚像だから。(うるさい)

コンテンツとしてみれば、好みじゃないなら見なければいいと思うし、それでいいと思う。彼らをすべて受け入れていない自分が嫌いとか、わかる。けど、彼らのすべてなんて彼ら自身も知らない。そう思うことにしている。

フィクションをたのしむ、それが私の根っからのオタクポリシーなのかもしれない。

 

以上、個人的な表明だ。

ここまで読んだ稀有な人がもしいたら、感謝です。。

めちゃくちゃだけど、私がこういう人なんだ~ってわかる内容でした。

恥ずかしい。自分のためとか言いつつ、見えるところに置くのが自己投影だと思うので公開します。悪しからず。